The Fantasy Beyond Control
原典:Illuminating Video: An Essential Guide to Video Art. New York: Aperture/BAVC, 1990, p.267-273.
The New Media Reader, 44:The Fantasy Beyond Control, The MIT Press, 2003, p643-647.目次 著者Webサイト上にも掲載されている。
イントロダクション
ビデオディスクを用いたインタラクティブ・ビデオアート作品である、リン・ハーシュマン=リーソンの『Lorna』(1979-1983)と『Deep Contact』(1989-1990)について説明する。『Lorna』を鑑賞することで、今までとは異なる方法で画面上のキャラクターと視線を同一視し、私たちはテレビに対して再配置されることになると紹介している。また関連作品として、グラハム・ヴァインブレンの『The Erl King』『Sonata』に触れて比較している。また最新の動向(2003年だが)『A Random Walk Through the 20th Century』『Hypercafe』『Hot Norman』から、技術の発展によってインタラクティブなビデオアートは個人でも簡単に、ネットワークを利用していくことを予想している。 本文の紹介
リン・ハーシュマン=リーソンはビデオダイアログ(セリフやメッセージ性のある映像の事)とは一方的なものであり、それに対してコントロールへの渇望や直接的な行動への欲求を抱えていることに苦しんだ。それは満足のいかないメディアの見過ぎによる副作用(あるいはビデオ・アーティストの職業病)と評した。 それを踏まえて、ハーシュマンは1973年にビデオではなくパフォーマンスから、ロベルタ・ブライトモアという別人格を作った。それは外面的な人格であり、複数の個人によって演じられた存在であった。ロベルタの現実操作、時間のねじれはインタラクティブ・パフォーマンスの秘密構造のモデルになった。2年後に初のインタラクティブアートビデオディスク『Lorna』が完成した。(インタラクティブ性によって)分岐した道が解体されていくにつれて、プレイヤーは、巧妙で強力なメディアによって引き起こされる恐怖の効果に気づき、その認識によってより能動的になっていった。 非相互的なビデオダイアログ
アートを作ることは能動的であり、それを見ることは受動的であるというのが支配的な考え方である。だからこそ、情報交換の基礎を変えること(メディアを視聴者の入力によって変化させること)は、破壊的な試みである。
コンピュータはあらかじめ作られたプログラムに沿って動いているだけではあるが、インタラクションによってシステムと視聴者との間に繋がりが生まれ、現実と虚構があいまいになる。現実は言葉や視覚によって検証できる知覚に限定されているのかもしれないと、フロイトも触れている。
情報や歴史を伝える画像や映像にはそれを撮ったカメラマンの意思や思想が反映されてしまう。そのため視聴者は本来の情報や歴史を自分の考えや意思だけによって受け取ることが難しくなる。また視聴者からはカメラマンの意思を明確に確認することができないため、それがないようにも感じられる。その喪失は視聴者にとって一方的であると感じさせると同時にコントロールしたいという欲求などを生み出してしまう。情報が個人のコントロールを超えて提示されるとき、鑑賞者は真実から切り離されて、結果として個人のアイデンティティの低下を引き起こすとされ、これによって浮遊感や違和感、あるいは文化的ウイルスをもたらして、慢性的な寂しさを生み出すこととなる。
制作進行中の二つの作品
『Lorna』の制作を踏まえて、著者が当時制作していた作品『Deep Contact』『Paths of Inner Action』の制作目的に触れている。 終わりに
インタラクティブメディア技術が社会の様々な分野で使われるようになった。その政治的影響は驚くほどである。また遺伝子工学が生きる意味を再構築したのと同様に、インタラクティブメディア技術は伝統的な物語を再構築した。自分の人生に影響を与え、秩序を与える価値観の発見に個人的に参加することで、個人は破壊的な支配から自分を隔てる分裂を解消し、ノスタルジックな憧れをアイデンティティ、目的、希望の感覚に置き換えることができる。
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